一番やりたいことで食べていくために、
一番自信のあることのスキルをさらに磨く。
二足のわらじは楽ではない。

転職を機に、高校時代から始めていたミュージシャンとしての活動を再開させた。京都最大の求人広告代理店での組織リーダー。週に1、2度は会社に泊まり込むほどの激務をこなしながら、土日はテクノミュージックのクラブイベントの主催やDJとして活躍する。35歳という期限を設定して、夢を実現するための2つのスキルアップに余念がない。

岩井秀隆さん
 
29歳 滋賀県在住 
[株式会社インテリジェンスオフィス (京都市中京区)営業リーダー]

 3ヵ月に1度の全社をあげての打ち上げ。夜11時のカラオケボックス。「みなさーん、お疲れさまでしたー。それでは私だけ出発させてもらいまーす」。「岩井さんあってのインテリジェンスオフィス! いってらっしゃーい!」。平均年齢25歳、総勢40人の「ウォー」という大喝采に送られて大阪のテクノイベント会場に一人向かう。深夜1時からDJ、「HIDEKICHI」として出演するためだ。

一つめの会社を胸を張って退職。憧れていた生き方を実践する経営者との出会い。

 25歳のとき、華やかな世界に憧れて新卒として入社した大阪の広告会社を辞めた。新入社員研修は6泊7日で外部との連絡は一切禁止。社長の延々と続く講話から始まり、まったく人間の個性を無視したその教育内容。研修終了後の現場では、幹部社員からの暴力や毎日の強制的な深夜労働。およそ信じられない労働条件。
 しかし誰の力も借りずに顧客から広告発注を獲得すると、認められた自分がうれしかった。「5年、10年と辞めずにいる人がいる。その理由がわかるまでやってやろう」という気持ちが生まれた。後輩たちの面倒を見ながら、プライベートな時間をほとんど持てない3年間を過ごした。
 退職願を出すと、「何の実績もない新人時代から給料を払ってきたんやぞ!」と社長にすごまれる。退職を認める条件としてとても達成できそうにない受注目標を決められた。それを必死でクリアして、泣き落としにでた社長を振り切った。
 何がしたいという明確な目的もない中、転職雑誌で見つけたのが今の会社。大手情報出版社の京都・滋賀地区の総代理店。12年前に設立され求人広告の代理店業務を主としながら、一般広告全般と総務業務のアウトソーシングを請け負う会社、ネットによる企業サポートをする会社の2社を分社し、グループ全体として100人近い陣容を誇る会社である。
 2000年4月、大手情報出版社から京都・滋賀地区における戦略新商品の販売パートナーとして協力を要請され、営業部隊を増強するために人員を募集していた。採用面接で佐藤社長に会って、どうしてもこの人のもとで働きたいと思った。


大好きな音楽とどうかかわっていく? 社長がひとつのヒントを与えてくれた。

 社長からはそれまでの経験を買われて、個人の営業成績のみならずリーダーとしての動きを期待された。後に採用された7人の後輩の先頭に立って走り回る。求人情報誌が乱立して久しい京滋のマーケットで、みずから朝から夜まで新規開拓する。営業経験のないメンバーを指導する。業務の効率的な流れをつくっていくために連日ミーティングに参加する。
 新商品で創刊当時は広告効果もおぼつかず、顧客からのクレームにひたすら頭を下げる日々が続いた。仕事のハードさについていけないメンバーも多く、顔ぶれも次々に変わっていく。もう一人の営業リーダーと制作リーダーとともに、週1、2回は会社に泊まりこんでは膨大な業務をこなした。
 入社して2年後の27歳のとき、深夜業務を終えていっしょに食事に出た社長から一声かけられた。「岩井よ。一番得意なことや自信のあることに夢中になれるのは当たり前。二番めに力を出せそうなことの能力を磨くことが大切だぜ」。
 前の会社の退職と同時に、高校から始めていた音楽活動を再開させていた。テクノにハマっていた。
 高校時代は、先頭に立って音楽部を、電子楽器が使える「軽音楽部」へ衣替えさせた。その一方、ボランティア活動で「子ども会のお兄さん」を続けた。大学時代は体育会スノーボード部の主将として、組織リーダーとして部員たちを引っ張った。とにかく若い人たちの先頭に立って頑張っていくことがヤリガイだった。
 転職後は社長が応援してくれて音楽活動を続けられていた。しかし厳しいリーダー業務との兼ね合いの中で、中途半端な取り組みになっていて悩み始めていたときの一言。
 これでふん切りがついた。「今は、音楽で生きて行こうと思う若い子たちを引っ張っていける能力を身につけよう」。


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