一人の人間が多くのことをできるわけではない。
働くことで自分の「今」をより実感
するために、サラリーマン奏者の道と決別した。

風流打楽「祭衆」は、株式会社太鼓センターを母体とする和太鼓演奏グループ。30歳のときに、固定給をもらう「サラリーマン奏者」の道を断ち、「ギャラ制」によるプロ契約に移行した。教室での演奏指導や学校での公演、地方イベント。独自で企画・創作したコンサートも開催する。自分が求める音の世界を手に入れるために10年を費やしたと言う。

川原崎能弘さん 31歳 京都市在住
[風流打楽「祭衆」座長]
 司会担当が「代表になって私たちと一緒に太鼓を叩いてくれる人ー!」と叫ぶと、400人の児童のほとんど全員が一斉に手を挙げた。「ハイハーイ!」「僕にやらしてー」。空調のない真夏の講堂に子どもたちの声がコダマする。小学校での公演が始まって1時間。綿密に練りあげたプログラムの最後、太鼓を叩いてみたいという子どもたちの気持ちは最高潮に達していた。選ばれなかった子どもたちも、最後の演目「潤風」の演奏に大声で合いの手を入れる。「サー!」。 
 熱気と太鼓の残音の中を、子どもたちは次の授業のために帰って行く。1時間かけてメンバーみずから積み込んだ大小20個の太鼓や衣装、照明設備などを乗せた専用トラックが、次のイベント地に向けて走り出す。


高校時代までは何でもできると思っていた。和太鼓だけはなかなか成長できない。

 9歳のときに学童保育の中で株式会社太鼓センターのひがし社長と太鼓に出会った。太鼓の奥深さや大勢で力を合わせる楽しさを学んだ。最年長で小さな子どもたちの世話役。そんな役割を中学卒業まで続けた。
 高校を卒業するまで、なんでもソツなくこなしてきた。運動会の個人競技はトップクラス、勉強もここぞというときだけに集中して結果を出した。何でもできるように見せていたし、何でもできると思っていた。そんな中、絶対に合格すると思っていた
有名大学の受験に2年連続で失敗した。
 一浪中の19歳のとき、久しぶりにバチを握った。二浪めのときには、自分たちで新しいチームをつくり、夏祭りなどの演奏で資金を集めて運営していた。何でもすぐにトップクラスの実力を身につける自信があった。
 「太鼓奏者として本気でやってみないか? まだ高いギャラを取れる分野ではないが、これだけで食えるように変えたいんだ」。2度目の受験に失敗したとき、ひがし社長から誘われた。 
 この世界なら自分が「情報発信者」になれる。和太鼓だけは成長を実感できていなかった。待遇は保険も含めて完全なサラリーマン。経営に余裕があったわけでもないのに、一般企業と比べても遜色のない給料を出してくれた。


要領だけで通用した。自分の世界は自分で作るしかない。そこから逃げていた。

 朝まで飲み明かしてそのまま公演の舞台にあがってもソツなくこなせる。僕は太鼓でも認められた、そんなうぬぼれが未来永劫に続くと思っていた。
 2年が過ぎた頃、音楽大学出身の女性がチームに加わった。ストイックに音楽の世界に立ち向かい、確固たる音楽観を築き上げていた。
 「太鼓も音楽。もっともっと考えて取り組もう」と言って譲らない。ことあるごとにぶつかり、ときには泣かせてしまうほどまで彼女を論破した。それでもこだわりを引こうとしない。「いったい何なんだ!」。
 「私が求めているのはそんな音じゃない」。「じゃあ、お前が見本をみせてみろ」。「違う! あなたしか打てないの! 何でもっと真剣にやらないの!?」。要領だけでこなしていて、本気になれない自分を挑発し続けてくれた。
 「ちくしょう、今に見てろ」。太鼓に対する取り組み姿勢が変わっていった。祭衆も変わり始めた。
 多くの人の表現力を参考にはしても、自分が追い求める技術は自分でつくるしかない。そう気づいていたが手をつけずにいた。他の楽器をさまざまな形で学び、練習方法も自分で開発していく。地道にコツコツと積み上げていった。


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