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入院中から働く目的を考え続けた。
仕事を「生きがい」にはしたくない。 祇園祭の鉾町で、働くことの意味を見つけ出した。 |
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祇園祭の鉾町である鯉山町に住む。デジタル専門学校の講師とホームページの企画・作成を請け負うフリーランス。大学を卒業して半年足らずで2ヵ月の入院生活を余儀なくされた。やることもなく、将来の展望もなし、体にも大きな不安。いったい自分はどうなっていくのか? 退院後から働くことの目的さがしが始まる。祖母を振り切って家を飛び出した。 北邑直己さん 31歳 京都市出身・在住 WEBデザイナー(デジタルデバイザー) |
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相手の意見を尊重し合えた大学演劇部。何の役割も、成長も感じられない職場。 大学で演劇部に入部した。それまで一度も出会ったことのない人たち。誰かからほめられたいからでもなく、誰かから嫌われることもなんとも思わない。自分をシッカリ見つめて思うことをまっすぐ表現したい。演劇の世界の人はそんなふうに見えた。 昼に起きて部室に直行、夕方から練習をして、毎晩のように誰かの下宿に寄って語り明かす。部運営や部員のこと、自分の将来、人生のこと。それぞれが自分の価値観や考えをぶつけ合って、お互いの考え方を尊重できるようになっていった。 文化会活動にも没頭した。映研、落研、奇術部。マンモス大学の32もの文化系サークルを取りまとめる。4回生になると、友人たちは就職活動に時間をとられて文化会活動もとどこおりがちになった。中小企業から内定をとって就職活動を早々に終わらせ、文化祭の準備や運営などに忙殺された。 入社した中小企業には創意・工夫やクリエイティブ性が感じられなかった。つい最近まで情熱的に新しいことに挑戦していた反動。そのときは「ほかの社員さんたちは何のために働いているんだろう?」としか思えなかった。入社してすぐに携わった新卒採用活動で成果をあげられず、上司に問いただした。「責任は誰がとるんですか?」。上司からは何の返事もなかった。 ある日の深夜、自転車での帰宅途中、急に体の力が入らなくなった。病院に駆け込むと入院させられた。体力のなかった自分が、中学ではバスケ、大学ではハードな演劇、そして千数百万の予算を扱う文化会。父親の手術の付き添い、自分を跡取りとして大切にしてくれた祖母の看病。 気がつけば、休みなくずっと気をはりつめ、体を酷使し続けてきた。役割も、人間的な成長への期待も見いだせない「会社の一員」でしかない自分。一気に疲れがふき出した。 体と心のリハビリ。コンピューターに手ごたえを感じて、実家を飛び出した。 病室と検査だけの日々が続き、ハッキリした原因もつかめないまま入院は2ヵ月間にも及んだ。「このまま死ぬのか?」。ときおり猛烈な不安が襲ってくる。しかし病院には、はるかに病状の悪い方々がたくさんいた。談話室や娯楽室でいろいろな人といろいろな話をした。 「働きたいのに働けない」。大手企業の社員さんがポツリと言ったその一言が耳から離れなかった。「なんで働きたいんだろう?」「働けるのに働かない自分とは一体、なんなんだ?」。退院したあとの自分のことを思い巡らせ続けた。 友人たちは組織人として歯を食いしばって頑張っている。しかし自分は「会社勤め」という働き方はやめよう。退院のときに決めた。 「心のリハビリをしよう」。そう決心した。「まだ機が熟していないだけ。あせったら負けだ」。そう自分に言い聞かせる。心配する両親や近所の人たちの視線を痛く感じながら、体力づくりのためにウォーキングを黙々と続けた。6ヵ月が過ぎていった。 新聞広告で偶然見つけた専門学校などでコンピューターを勉強してみた。少しずつスキルが身についていく実感。「この世界なら自分でもやれるかもしれない」。学び始めて9ヵ月後、自宅を出て大阪で一人住まいを始めた。25歳になっていた。 家には、自分が家の跡取りとして育つことを生きがいにする祖母がいた。リハビリ期間中も自分を信じ続けてくれていた祖母。しかし今ここで自立しないと、「家」にしばられて流されてしまう。自分がシッカリすることが祖母への恩返しだと思った。祖母はその後すぐに他界した。 「お前がばあちゃんを殺したんだ」。親族にそう言われても、決して涙を流さなかった。弁当屋や新聞社、専門学校でアルバイトして、苦しくても自力で生活費を捻出した。 次のページヘ |
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