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みんなが集まってなにかを生み出す喜び。
「派遣」の立場を前向きにとらえると、 いろんな立場の人たちと本当の交流ができる。 |
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26歳のとき、他のソフト会社の正社員としての内定を断って、派遣技術者の道を選んだ。コンピューター専門学校を卒業後、2つの会社に勤務し、どうしてもハード開発・設計がしたいと思った。安定的な仕事がないかもしれない不安の中で、やりたい仕事ができる道。そして就労形態の壁を乗り越えて一緒に新しいモノを作っていく喜びが今、たまらない。 森田亨さん 31歳 京都市出身・在住 [株式会社ジェイ・エス・エル(京都市)派遣社員] |
| 「森田さんは、どう思う?」。派遣先の会社の課長から相談された。「派遣社員さん」は与えられた仕事を確実にやればいいんだ、という態度の人だった。母親が病に冒され、派遣期間を終了してもらったとき、「私の知り合いの会社を紹介しようか?」と声をかけてくれた派遣先の社員の方々。「派遣」という立場を乗り越え、職場の方々と心から一体になるため、とにかく会話を働きかける。そんな努力がたくさんの「同僚」「友人」を作っていく。 「目に見えるモノ」に対する好奇心。2つの職場で見つけた自分らしい働き方。 中学時代の成績はどの科目も最高点に近かった。高校時代から、「目に見えて何の役に立つのかわからない」勉強に興味がなくなり成績は急降下した。物理と政経だけは勉強をしなくても5段階評価の5がついていた。高校卒業のとき、バイクが欲しくてもう働こうと思った。大学を出ていない両親は進学を勧めた。 1浪ののちパソコンに興味を持ち、2年間だけ親に甘えて専門学校に行かせてもらった。自分が打ち込んだプログラムが指示したとおりに動く。久しぶりに勉強したいと思った。 新卒で入社したソフトハウスでは、発注元のメーカーからシステム開発を受託した親請け会社からの下請け仕事をした。発注元と親請け会社が話し合い不足のままに仕事が下りてきた。 方針の変更が相次いで毎晩終電近くまで働かされた。そして不完全なまま納品。当たり前のようにシステム不良が起き、九州の発注元の工場で1ヵ月間、昼夜なく修復作業をさせられた。 発注元の工場の人々はとても協力的だった。何度同じような質問をしても嫌な顔ひとつせず答えてくれる。働くのが楽しそうに見える。「一人ひとりが自分の役割をしっかりわかって協力し合えているから元気なんだろうか?」。そう思った。 話し合い不足のまま進めた未完成品をまた顧客に納めようとした会社に見切りをつけた。徹底的に鍛えてくれた上司に感謝しながらも退社した。 モノ創りがしたくて転職したアルミ加工商社では、職人たちが何かことあるたびに話し合っていた。何度も話し合うことで隅々まで会話が行き渡っていく。大人数でモノを作るときの進め方。一人でやるとできないことがみんなでやるとできていく。面倒見の良い人たちに囲まれて2年間を過ごした。 派遣社員に誇りはいらない? 派遣会社の担当者に不満をぶつける日々が続く。 26歳のとき、開発設計がしたいという思いで、内定をもらっていたソフト会社を断り、派遣技術者の道を選んだ。経験はなかったが設計職に応募すると採用された。 大手メーカーに機械設計要員として派遣される。部分設計やマイナーチェンジ設計が中心で決して希望通りではなかったが、やりたかったハード設計には変わりなかった。 仕事内容よりも、派遣社員に対する正社員たちの対応が気にかかった。「派遣さんは、指示した仕事内容を確実にこなしてくれればいい」。大きな仕事の進め方や重要な問題解決は正社員たちだけで決める。 「こうすればいいのに」と思うことが多くある。2つの会社を経験し、組織で仕事を進めるときの別の方法を知っている。しかしそんな相談は全く来ない。 「派遣社員も話し合いに参加させたほうがいいんじゃないですか?」。いつもそう話を持ちかけた。正面から提案をぶつけるだけでなく、仕事の合間に休憩室や食堂で、たわいもない話を投げかける。同じ目的に向けて力を合わせる人間どうし、気ごころを分かり合っていたほうが絶対いい。 他の派遣会社から来ている人たちは、同じ派遣会社の仲間内にしか心を開かない。「やっても無駄やで」。そんな冷ややかな視線が向けられた。 孤独。自分の派遣会社の担当者に、ことあるたびに不満と文句をぶつけた。派遣会社にとって派遣社員は「商品」。派遣社員の将来など考えもしなければ、まして「誇り」など持たなくていいと思っていた。まだそんな時代だった。 担当者はじっと話を聞き続けてくれた。契約している業務以上のことに口は出さないでほしいという派遣先の会社からのクレームに対して、その担当者が壁になってかばってくれていた。 次のページヘ |
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