「やりたいこと」に気づいて選んだ嘱託職員と
いう「期限付」の働き方。その目的を自分に
言い聞かせて仕事に没頭した。
自分で自分を見失った高校時代。若手の意見が反映されにくい職場での苦しみ。婚約を機に将来設計をしたときに、金銭面も、自分らしい生き方も、何も手に入れられそうもない自分に気づいた。そんなとき、大学コンソーシアム京都に勤める友人が声をかけてくれた。大学と地域社会・産業界とのつながりや大学相互の結びつきを深めるために設立されたこの機関での3年の期間を、「自分にできること」探しに設定し、朝から晩まで仕事に没頭した。

杉田隆司
さん
30歳 長岡京市在住
[元大学コンソーシアム京都(下京区)]

家庭の危機に、父へのプライドを捨てて野球の道へ。大学では個性に応じた指導をしてくれた。

 父親の希望で始めた少年野球。5年生から4番ピッチャーとして将来を嘱望されたが、厳しい指導のコーチへの反発とマンガの影響で中学は陸上競技部へ。野球を再開するまでは話をしない、という父に反発して、自主性を重視する顧問の先生のもとで近畿記録樹立や全国入賞。弱音を誰にもはかず素質と努力で結果を出した。
 3DKの狭い団地の中で、まったく会話しない父と子の関係に、家庭はギクシャクし始める。自分のために母や妹を悲しませたくない。体調を崩したのをキッカケに高校で再び野球をする決意を固める。しかし目指した公立の進学校に不合格。「お前に何もしてやれなかった!」。担任の先生が自宅を訪れ家族全員の見ている中で涙ながらに土下座してくれた。
 入学した私立の名門野球部では、「野球づけ」の日々。先輩や監督からは、野球とは関係ない理不尽な仕打ちを受けた。野球や仲間は好きだが、「部活」からは逃げ出したかった。野球をやめられない理由を誰にも言わず、3年間を耐えた。
 京都の私大に進学し、野球部に入部した。甲子園出場経験者に囲まれ、初めて手にする木のバット。実績もなく、内野フライばかりを打ち上げる杉田さんに、一人のコーチが一から野球の基本を教えてくれた。決して押しつけることなく、取り組んでいることの意味を理解させながら、基本から順に積み重ねるように。
 「すぐになんかできるようにはならないんだ。あきらめずに続ければひとつずつできていくようになるんだよ」。そう言って成長を見守ってくれた。
 少しずつ野球の楽しさを思い出し、練習にも力が入る。2年間が過ぎた3年生の秋にはベンチ入りし、ホームランを打つまでになった。


自分から動く。学んだことを活かせない職場。いったい俺の人生はどうなってしまうんだ?

 身近な大人である父親とまったく話をせず、高校では野球にほとんどの時間を使ってしまい、「仲間」以外の人との会話が苦手になっていた。大学野球部で知り合った自分とはまったくの性格の違う友人と、休みのたびに飲み明かし、自分から動いて人に声をかけていく訓練をした。
 就職活動では、大手企業を中心に試験を受けたが、いろいろな人にもまれる中であと一歩及ばなかった。大学入学のときに世話を焼いてくれた野球部のOBで、スポーツウエアの製造もしていた中堅繊維メーカーの経営者に直接電話をして、「大卒は採りませんか?」と相談すると、採用してもらえた。
 会社の平均年齢は50代。工場以外の社員で20代は事務の女性を含めてたった5人。肌着分野のニッチなマーケットで大きなシェアを持っていて業績は安定。
 そんな中で大手ブランドのスポーツウエアを、生地選びから仕入れの手配まで、自分なりにさまざまな人の力を借りて組み立てていける楽しさに没頭した。
 入社して4年たった頃から、他社メーカーが中国などの海外生産で低コスト化を実現し、国内生産中心であった会社の売り上げが大幅に減っていった。主力商品はまだ強かったものの次第に全社の業績も悪化していく。
 同世代の仲間と相談しては、上司に対して新規顧客の開拓を熱心に提案したが、話を聞いてもらえない。自社工場や協力工場の生産体制の現場を学びたいと出張申請すると、「経費削減」を理由に行かせてもらえない。「机の上で、まず学ぶことがあるんじゃないか?」とまで言われた。
 仕事での外部の人との交流がどんどん少なくなっていく。旧友たちと会うことも滅多になくなっていた。「もし今、会社を辞めたらいったい自分に何ができるのだろう?」。信頼しあえる新しい知人は数えるほどしかできていない。不安が次第に高まっていく。
 28歳のときには結婚を決意した。しかし当時の給料の手取りは17万円もなかった。「こんなんじゃ生活できないじゃないか!?」。何度も計算しては愕然とした。


次のページヘ
ページ: 1 | 2
(c) 2003 WOOCA. All rights reserved.