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妻1人子1人の24歳のときに選んだ、
日給5000円の大工修行の道。 2人めの子作りのときは牛乳配達をかけもった。 |
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妻が妊娠4ヵ月のとき、父が脳梗塞で他界した。仕事中も頭から離れることのないほど夢中になっていた三菱ジープを売り払い、遊びからの卒業を決断した矢先の出来事。友人たちの遊びの誘いを泣く泣く断り、毎日、家に帰って大工道具を夢中になって磨き上げる。今、大工修行の最後の段階である「墨付け」を少しずつ任せてもらえるようになってきた。 上野泰孝さん 31歳 京都市出身・在住 [大工見習い] |
| 「お互い今までよく頑張ってきたし、自分たちへの褒美に旅行に行こうよ」。夜8時、7歳と3歳の子どもを寝かしつけながら妻が言った。「ぜいたくちゃうかー? でも頑張った褒美かー。よし行こか!」。うれしそうに答えて、自宅横にある作業場に大工道具を持って向かう。近所の知人から頼まれ、材料費だけで修築を引き受けた物干し台の部材にカンナをかける。その手に力が入った。 24歳。付き合っていた女性が妊娠。遊びを卒業したそのとき父親が他界した。 父親は京北町から京都市山科区に居を移して、31歳のときに材木商として独立した。朝の5時から夜の11時まで働く。材木が積み上げられた広い倉庫では、翌日の部材の仕込みのために、毎晩多くの大工が作業をしていた。子どもにとっては遊び場だったその倉庫は、木の香りと大人たちの活気にあふれていた。 小・中学校と野球づけ。中学3年のとき、重たい材木を一人で抱える父の姿を見て、「いつまでも親父一人にやらしてられんな」と思った。「跡を継ごう。でももうちょっと待っといてな」。心の中でそう父に言った。 高校時代はバイクとクルマに心を奪われ、そのためのバイトに明け暮れた。父の商売は順調で、バイクもクルマも購入資金を援助してくれた。 高校を卒業、仕事を手伝いはじめて2ヵ月後、父が心不全で1ヵ月間入院した。木材のことも商売のことも何も分からない中、いろんな人に助けられながら乗り切った。自分で考え、自分でダンドリをつけるのが楽しい。父のその後の2度の入院の間も、自信を持って取り仕切った。 そんな自信からか、20歳の頃には4輪駆動の車にとりつかれた。材木の配達をして帰ってきてはオフロード雑誌を読み、また配達に行っては自慢のジープの改造に想いをはせる。自由に使える10万円の給料のほとんどは車の改造費に消えていった。 24歳の11月、付き合っていた女性が妊娠した。自分の子どもができる。仕事に集中するために愛車をすぐに売り払った。自ら帳簿をつけ始めた。 「31歳になったら社長をやってもらうで」。自分が31歳で独立した父親はそう告げた。遊びからの卒業の決意がようやくできたそのとき、父親は脳梗塞で倒れ、その17日後、意識が戻らないまま他界した。 生活のために勤めた工場。流れ作業は、やってもやっても止まらない。 数年前にバブルは崩壊していて、事業はもう続けられない状態だった。すぐに会社清算の手続きをした。会社の買掛金などは父の生命保険などで返済できた。債権者に追い立てられたり、自宅を売り払うようなことにはならなかった。 葬儀、売掛金の回収などの後始末や法事、身重の妻との入籍や同居の手配などで忙殺される。混乱の中でどうやってこれから妻と生まれてくる子どもの生活費を稼いでいくのか、ジックリと考える暇もなかった。 18歳からの5年間の給料の中から毎月6万円を父が積み立ててくれていて、300万円ほどが手元に残っていた。 失業保険をもらおうと思って工場に勤め、流れ作業についた。一生懸命取り組んだが、やってもやってもやった分だけ次の部品が積まれていく。「手に職をつけたい」。会社勤めは1ヵ月で終わった。 すぐにでも一定のお金が安定的にもらえるのは会社勤めだとはわかっていた。しかし、すぐにお金がもらえるということは、年をとってもあまりたくさんはもらえないということに思えた。 子どもの頃から身近に接していた大工などの職人になりたかった。手に職をつける。手当てをもらいながら技術を身につけられる職業訓練校に通うことも考えた。 次のページヘ |
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